冬の海風が染みる釜山・東萊の旧景の上に、朝鮮の国境外交は一幅の壮大な歴史劇のように展開されます。「東萊府に到着した日本使節を迎える図」屏風は、戦争の廃墟の上に再構築された外交秩序と、それを視覚的に演出した朝鮮の政治的想像力を一望させる作品です。この絵は、壬辰倭乱以降の東アジア国際関係がどのような規則のもとに再編されたのかを語る、まさに視覚的な宣言文といえます。
この十幅屏風には、1609年の己酉約条によって国交が回復した後も続いた、朝鮮と日本の緊張と計算が凝縮されています。日本使節はもはや漢陽に上り国王に直接謁見することを許されず、草梁倭館で王を象徴する殿牌に向かって拝礼することで外交儀礼を行わねばなりませんでした。これは、日本が朝鮮王権に直接触れることのできない存在として位置づけられた重要な変化を示しています。
第一幅から第七幅までは、東萊城を出発した東萊府使の行列が草梁倭館へ向かう過程が壮大に描かれます。山の下に広がる城郭や道路、秩序正しい官吏と軍卒の隊列は、この出会いが国家の威信を懸けた公式外交であることを強調しています。画面の中心にあるのは日本使節ではなく、彼らを迎えに行く朝鮮の行政と権力です。
第八幅で日本使節はようやく登場しますが、その位置は厳格に規定されています。草梁客舎の庭で、彼らは朝鮮国王を象徴する殿牌に向かって拝礼します。国王の実体は描かれていませんが、殿牌という象徴物が空間を支配し、日本使節を階層的に下位へと置いています。これは、戦後も朝鮮が外交的優位を放棄しなかったことを示す場面です。
第九幅に描かれる聖神堂と賓日軒は、通訳と外交実務が行われた場所です。華美ではありませんが緻密に描かれた建物は、朝鮮と日本の関係が感情や友好ではなく、言語と文書、手続きによって管理されていたことを物語ります。戦争の記憶が生きる時代において、外交とはすなわち統制と監視の別名でした。
第十幅の宴享大庁は、公式儀礼の後に続く宴の場面を描いています。音楽と食、交流が行われる空間でありながら、それもまた朝鮮が主催し、日本が招かれるという構図の中にあります。歓待はあっても平等はなく、外交は親交ではなく秩序の延長でした。
この屏風は俯瞰法、すなわち上から見下ろす視点を採用しています。鑑賞者は東萊城から倭館、客舎、宴享大庁へと続く外交の動線を、地図を読むように一望できます。これは風景画ではなく体系であり、朝鮮が設計した外交舞台の設計図そのものです。
山や道、建物、地名が細かく書き込まれているのも同じ理由です。この屏風は絵画であると同時に記録であり、東萊という国境都市がどのように外交の現場として組織されていたかを示しています。東萊は単なる辺境ではなく、朝鮮と日本が向き合う国際舞台でした。
歴史的にこの作品は、壬辰倭乱以降に朝鮮が日本をどのように管理したのかを示す稀有な視覚資料です。文献だけでは把握しにくい儀礼の流れや空間の序列、人々の配置が具体的に示され、朝鮮後期の外交秩序を理解する決定的な手がかりを与えてくれます。
文化的にも、この屏風は朝鮮絵画が美的対象にとどまらず、国家の記憶と権力を担う視覚メディアであったことを証明しています。美しいというより正確であり、装飾的というより政治的な作品です。見えない権力が、色と線、空間配置によって可視化されています。
日本使節が描かれてはいますが、画面を支配しているのは朝鮮の空間と行列です。日本は限定された舞台にとどまり、朝鮮の建築と地形、行政が画面全体を掌握しています。外交の主導権がどこにあるのかを、言葉なく示す視覚戦略です。
今日、この屏風は単なる過去の日韓関係の一場面を超え、戦後国家が象徴と儀礼を通じていかに国際秩序を再構築したかを示す重要な事例として読まれます。武器ではなく、イメージと空間、手続きが外交を支配した時代の論理が、ここに凝縮されています。
「東萊府に到着した日本使節を迎える図」は、戦争の廃墟の上に再び築かれた朝鮮の外交舞台そのものです。和解の記録であると同時に境界の宣言であり、東アジア国際秩序の中で朝鮮が自らをどのように位置づけたのかを語る視覚的自伝といえるでしょう。
ニュースカルチャーのM.J._mj94070777@nc.press
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